(回想記)

2005.7.4 回想1 最初の出合い

そう、初めてReiに逢ったのは、小学校2年生の時。同じクラスにいた女の子がReiの主催する絵画教室に通っている話を聞き、ボクも行きたくなり、初めての習い事として教室に通うことになった。
入会申込みをしに母に連れられて教室に行くと玄関先でReiが笑顔で迎えてくれた。何を話したかは良く覚えていない。たしか、Reiの隣で子犬がキャンキャン吠えていたっけ。
その後初めての絵を習いに行った日のことは鮮明に覚えている。
リノリウムでフローリングされた床のまん中に板が何枚も並んでいる。板の間には何本かの絵筆と何色かの絵の具が絵皿に入って置いてある。壁には多分教室に通う子供達の優秀作なのであろう作品が貼ってあり、まん中に宮沢賢治の「アメニモマケズ カゼニモマケズ」の書が飾ってあった。
部屋の奥の方でロッキングチェアーに座ったReiがいた。
板の上にA2版くらいの画用紙を置き、好きな絵を書いて御覧と言われた。 「楽しかったこととか思い出して御覧、なんでも好きなものを書いていいんだよ」
動物園で見た、ライオンを書いた。
出来上がってもどうしていいのか判らないボクにReiは「出来たかな?」と言っていろいろと質問してきた。これはどこ?誰と行ったの?これはなに?・・・云々。
「はい、今日はここまでね。手を洗ってお帰りなさい。」
えっ?何も教えてくれない?ここはこういう風に書くのだとか、筆はこう持ってとか・・・そんな言葉はないの?
ない!一切ない!なーんだ、教えてくれるんじゃないんだ。
この状態は実はこのあと10年以上も変わらなかった。
書いた絵は1ヶ月後に返される。裏には Reiがコメントを書いてくれていた。
なぜ、そうした方針であったのか、ボクは30才位でようやく気付くことになる。

翌週行くと、なぜかボクのライオンの絵が飾ってあった。

 

2005.7.9 回想2 大きくなってからのこと

中学校へあがり、学校がなにかと楽しくなってくると教室に通うのがちょっと億劫になってくる。ちょっとした反抗期?
だから、教室に正式に通うことを辞めた。でもなんとなく心苦しいような淋しいような。
するとReiは、そんな反抗期の少年の心を知ってか知らずか、こう言ってくれた。「書きたくなったらいつでもおいで。来たい時にきて好きなように過ごせばいいから」
当然、その言葉には甘えた。
むしろ、義務感ではなく、行きたい時に行くのだから、かえって熱心になった。回数は少ないけど、中身は濃厚というべきか。なんともそんな幼いボクをしっかりと受け止めてくれたのである。

でも、そんなあるとき、初めてReiが絵に対して批判した。正確にいうと批判したように思えた。ボクにとってははじめてのショックだった。
それは自分の家で書いた絵を持って行き、見てもらったときのこと。なにかモヤモヤしたものがあって悩みがあって、それを絵に書いたものだった。真ん中に人(実はこれがボク)、その周りにはモヤモヤがあり、いろいろな言葉を形成する文字や記号が未曾有さに散りばめられている絵だった。
Reiは言った。「ポスターが書きたかったの?」
例によってReiは決して×は出さない。けれど、その言葉はボクにとっては×以上のショックだった。
Reiが続けた。
「心の中はもっともっと奥深いもの。表面だけを捉えては心の表現にはならない」

今でもその時の様子は覚えている。実にショックだったと同時にReiがとても怖い人になり、別人のように見えたことを。
でも、その言葉が終わると、また元のReiに戻った。

はたして、あれはなんだったんだろう。あのころのボクの驕りに対する戒めや警告だったように思う。それからしばらくの間、Reiがとても怖い人に思えた当時のボクだった。

 

2005.7.13 回想3 油絵

小学校の4年生になると油絵を描かせてもらえるようになった。そういうシステムだったのか希望者だけがそうなのかはわからないが、ボクは喜んで道具をReiに揃えてもらった。
木のケースに入った新品の絵の具、筆、ペインティングナイフ、油壷、そしてパレットも木製だ。こんなうれしいことはない。
新品の道具を肩から下げて通う。
油絵を描く人たちは、夕方の遅めの時間帯に行くようになっていた。その時間帯に行くと教室の匂いがこれまでと違う。油絵の具の匂いがするのだ。その匂いにちょっとどきどきしながら、初めてのキャンパスを貰い、初めてイーゼルの前に座ってキョトキョト。これまでは水彩絵の具、今日からは油絵の具。
例によってReiは、道具の使い方は教えてくれたけど、書き方は何も言わない。
例えば、ペインティングナイフの使い方を知ったのは高校の美術の先生からだった。教室でも使って書いていたが、自己流。ちょっと間違った?使い方をしていて高校の美術教師は非常にも間違った使い方をしているとボクに教えたのだ。
筆を寝かせて書こうが、立てて書こうが、筆を良くふき取らずに違う絵の具をつけて書いた結果、色が変に混ざり合おうが、筆の柄のほうで書こうが、何でもOKなのである。

あるとき、たしかそれは外での写生後、教室で書いた時のこと、どうしても土の様子をもっともっと立体的にしたくて、いろいろ考えたあげく、本物の土を絵の具に混ぜたらいいのではないかという案が浮かんだ。確か、それは5年生だったと思う。Reiは何も言わないことをもうわかっていたから、その方法が正しいかは聞かない(どうせ聞いてもニコニコしてるだけで教えてくれないし)。でも黙って教室を出て行くわけには行かないので、ちょっと外に出たいと申し出た。
さすがのReiもそれには驚いた顔で、どうしたの?と言う。きっと具合が悪かったり、なにかあって帰りたくなったとか、急用を思い出したとか、思ったのだろう。ボクは少し意地悪をしたくなった。それで「ちょっとね。でも1分くらいだから。玄関を出るだけだよ」とわざと土を取りに行くとは言わなかった。珍しくReiは動揺したようすで何をしに行くのか問いただす。仕方なく、土か砂を取りに行きたいと告げるとReiが笑顔に戻って、行っておいでと言った。しかも採った土や砂を乗せる新聞紙も持って行けという。
その時、 正直残念だった。ボクの会心のアイディアが創作以前にばれてしまったと思ったからだ。案の定そうだった。だから新聞紙なんて言ったのだ。ニコニコ顔で見てる。完全にバレテル。
あの時の悔しさは今でも忘れない。何でわかっちゃうんだろうと。
採ってきた土や砂を少量絵の具に混ぜて塗ってみた。ざらざら、ぶつぶつ感がいい。やった!と思った。ただひとつReiに事前にバレていたことを除けば。
作品が出来ると、自分から出来上がったことを告げに行く。この頃になると1回では完成しない。自分で納得のいくまで何週もかけて書く。どうしてもその判断が出来ないときのみ、Reiが来週もう1回書いたら?とか、これはこれで今日で完成でいいんじゃない?とか言ってくれる。
さすがにその時は完成とは思っていない。絵の具が乾くと質感が変わる。しかも土入り、砂入りの未知の絵の具なのだから。
Reiは言った。よく気がついたね、砂を混ぜたりすることは多くの絵描きさんもやっていることで、そこに気付いたのはすごいとかなんとか褒めてくれた。でもバレバレだから悔しい。
いつもならあっさり、じゃ来週ねというのに、なぜかこの日はしつこく完成とするかどうかを聞く。なんかテストみたいで嫌だった。仕方なく乾いたらどうなるか見たいから来週もう1回やる、と答える。Reiは静かにいいよと言った。多分そこでこれで完成といってもOKだったのだろう。本人の意思による本人の作品を重視していた人だから。
Reiがこんなことも言った。こうしなくちゃいけないとか、こうしてはいけないとか、そういうことは絵の世界ではないのだと。だからなんでもやっていいのだと。
ペインティングナイフの先、半分くらいをペンチで曲げて波型の引っかき傷を作ったりしてたボクに、これが正しい使い方だと教えてくれた高校の先生はそれはそれで正しい。ペインティングナイフの持ち方やら絵の具の乗せ方や動きの方向からいろいろ教えてくれたけど・・・。

道具を片付けているとだいたいいつもボクが最後の生徒になる。広い部屋にぽつんとボクひとり、その奥にReiがひとり。
帰り支度が出来て帰るとき、その日最後の生徒であるボクを玄関まで送ってくれる。玄関の鍵を閉めるためなのだが、それが妙に淋しくて。特に冬はたまらなく淋しかった。その淋しさを紛らわすために冷たい風を切って走って帰るボクだった。

PS.今だから白状します。当時、パレットナイフを紙を切る時にカッターナイフの代用に使ってました・・・。これもOKだよね。

 

2005.7.21 回想4 Reiのこと

それは、突然だった。
じつは、ここにそれを記してはならないと思っていたし、現に今も悩みつつ、記している。
2年前の今日、Reiは我々の元から遠い世界へと1人、旅に出かけてしまった。自由な旅へ。

2年前の今日であることを実はつい最近知った。具体的な月日がわからないでいたのだ。
それがなんとも悔しいやら、情けないやら、信じられないやら。。。

なんとも無責任な話であるが、具体的な日を何度思い出そうとしても出てこない。
それは7月。冷静に考えてみると多分20日だったのではないかと思う。
ご主人のNoriさんから突然電話があった。
それまでの間、Reiとボクは「メル友」だった。ようやく覚えたというメールを交換し、PCを使って書いたという絵やNoriさんの写真を送ってもらったり、そのお礼にPCの使い方講座だとか訳のわからない雑学を押し付けたりしていたものだから、なぜNoriさんから電話?と・・・。しかし、もしや・・・と。

Reiは身体が弱かった、特にそれは心臓であったこともあり、たびたび心配はしていた。

電話の向こうではNoriさんの懐かしい元気な声。そこで「Reiさんが倒れた」と。
言葉を失う。様子を聞くと、すでに倒れてから病院で目も覚まさずに1〜2週間ほどが経っていたように思う。
急にどうこうなるというのではないけれど・・・という言葉は覚えている。

それからのボクは、まずインターネットで室蘭までの道のりを探る。宿は?病院はわからない、でも現地でNoriさんに連絡すれば大丈夫だろう。飛行機は今からだったら間に合うか・・・。おお〜、インターネットでは当日予約が出来ない!
空席情報?満席・・・。では、明日は?

結局、行かれなかった。

そこで、即刻お見舞いのぬいぐるみと手紙を送った。

遅かった。

確かその後、連絡を貰ったように記憶している。でも実はそのあたりからの記憶は、ぼんやりとしていてよくわからないのが正直なところなのだ。
しかし、ボクの中では実際に現地に行っていたら、旅立つか旅立ってすぐ位に病院に出向いていただろうなと、そしてならばかえって行かない方が良かったのだと、これはReiがそうさせたのだと納得したことだけを覚えているのだ。
多分、その場面を見ていたら冷静ではいられないだろうし、ボクの心の中ではいつもいるし、またNoriさんやご親戚のことを考えるとボクがそこにぽつんといても仕方の無いこと、かえって気を使わせてしまう。

あー、これはこれでよかったのだと自分を納得させる意味でもそう思った。

実は、もしもReiに、もしものことがあったのなら、何をおいても行かなければいけない!とずっとずっと思っていたのに、実際にその場面になり、それが出来ずに・・・。でもあえてそうしなさいとReiが言ったように思っている。

その後、ボクは直ちにReiに手紙と餞別を送った。自由な旅行にいってらっしゃいと。

「Reiのこと」は、そういう話題を書くコーナーではない。
しかし、今日はまさにその日なので、今回だけはOKしてくれると思う。

今もPCの横にはReiが優しい笑顔でこちらを見てくれている。実はこれはNoriさんの真似なのである。
まずい!Reiが何か言っている!どうしてもPCの画面を見ると視覚に入ってしまうのでちょっと照れくさい。

Reiは今も自由な絵を書き、自由に飛び回っている。 いつもNoriさんと一緒にいる。
それでよいのだと思う。

ボクはこうして書いているが決して懐古主義でこのコーナーを運営しているわけではなく、いいものはいいと言える事実を記したいだけなのだ。

そう、ここにはそうした事実がある。Reiが今いることもすべて事実なのだ。

 

2005.7.22 回想5 随分大人になってからのこと

Reiと知り合ったのが小学校2年生の時。そして、その後離れてしまって、再会したのは確か35歳を過ぎていたと思う。
北海道のご自宅を訪れた。
いろいろ懐かしい話に盛り上がったっけ。
ふと見ると、そこに1枚の絵が飾ってあった。まさしくReiの書いた絵だ。タッチや構図でわかる。
何かとてもとても安心感を覚えた。そのことを伝えるとReiは意外な言葉を発した。
「この絵は色とか暗いでしょ。全部出てしまうの。だめねー、自分自身が、心が元気にならないと。だからこの絵は嫌いなんだけどね」と。
ハッとした。言われてみれば確かに。でもその色使いはまさしく、ボクがReiの存在を知る色使い。だとしたら、Reiはいつもそうだったのか・・・。

Reiは嫌いと言ってたけど、ボクはその絵が好きだった。

そうそう、以前に書いたなぜ何も教えなかったかということを、この日初めてReiに告白した。そして30歳を過ぎてからその理由がわかったことも。そうしたらReiは「随分とわかるまで時間がかかったわね、普通は小学校の高学年でわかるわよ」と笑って言った。
やられたー!と思った。まさに確信犯!待ってましたとばかりに言ったのだ。絶対にあの言葉用意していたに決まってる。

それから何年かして突然メールが来た。
年賀状に必ずメールアドレスを書いておいたのでそこに送ってみたとのこと。初めてのメールであり、これが届いているか心配ですと妙にかわいらしかった。
送り返すと翌日には返事が来ている。
そして、その頃はやりの「メル友」ですねと言っては、たわいも無いことをやり取りしていた。

メル友の内容は、いろいろ。
なぜか、ボクは仏教のいろいろ興味深い話をよく送った。Reiはそれに対していつも身の回りでおきている事や事象を確認できるような内容の返事をくれた。

お互いに長いメールが得意(?)だったなー。ついつい長くなってしまうのだ。

あるときにReiは言った。
自分は生かされているのだと思うと。だから一生懸命に生きていかなくちゃいけないのだと。今日生きていられることは、今日生かされていることで感謝しなくちゃいけないと。

いつもながらにReiの言葉は深いと思った。

きっと、メールを打つのにも結構時間がかかっていたのではないだろうか。一文字打つのにもキーを探し、ひとつひとつ打っていたんだろうな。手書きなら楽なのに。でも、Reiはそれにチャレンジして、それはそれで面白いと言っていたっけ。
本来、メールはこういう風には書かないのですよ、でも二人の間だからいいですよねってボクも言っていた。
そう、打つとか書くとかではなく、メールというツールを通していつも話をしているつもりだと言ったことがある。

あるとき、Reiが言った。こんなに遠くに離れているのにまるで隣で話をしているようだねって。
ボクはまさに待ってましたとばかりにこう言った「その通り。そのつもりでいたのに今頃気付いたの?」って。

いつだかの仕返しのつもりで!

 

2005.7.28 回想6 よく覚えているものだ

北海道に逢いに行ったときのこと、昔話に花が咲いた。
懐かしい話の中で、少年時代のボクの話になった。
Reiが言う。小学校の高学年になるとラジオを持ってきてそれを聞きながら絵を描いてた。そのうち、ラジオを自分で消してしまう。描くことに夢中になって音がうるさくなったんだねー、いつもそうだったよ。と
えっ?そんなことしたっけ?
当の本人はラジオを持っていったことも描いているうちに音がうるさくてスイッチオフしたことも覚えていない。
しかし、よくそんなことを覚えているものだなー。

まあ、こちらもそれ以外の話についてはこうして回想録を書いているのだからそんな昔のことをよく覚えているねなのであるが。

とにかく周りの人に気を使ってくれる人だった。
でもそれは自分の作品や自分のことに夢中になっているときとは全然違うのだろうなと思っていた。
そういう意味で切り替えがきちんとできる人だったのではないかと思う。

ちょうど、ボクが教室に行き、絵を描き始めてしばらくすると、ご主人が出かけていく。玄関まで送るReiがいる。
なんでいつも夕方出かけるのかと思っていた。出かける前までは奥の部屋でピアノの音が聞こえていることがしばしばあった。音が聞こえなくなってしばらくすると出かけていくご主人の姿。
ある時、Reiに聞くとピアノはご主人が弾いているのだという。
普段、昼間は家にいる人なんだ。???
あれ?仕事は?
何でいつも夕方に出かけて行くの?と聞くとなんとReiは「実はね、うちのだんなさんは泥棒なの。だから夕方出かけて行くんだよ」と答えたのだ。もちろんその答えに信用はしていなかったが。

やがて、そう中学生になって勝手に行っていた頃になってジャズピアニストであることを知り、納得したような次第です。

 

005.8.1 回想7 よく笑う人

Reiのことを思い出そうとするとReiはいつも笑っていた。
時には静かに、時には大きな声で。
なんであんなに笑えたのだろうかと思うほど、よく笑っていた。その笑顔を見たくていろいろな話をしたこともまた事実。
Reiに怒られたことは1度もない。もっともそうさせてはいけないと思っていたからかもしれないが。

Reiが声に出して笑う時、それは本当に声に出して笑うのだ。おかしくて仕方がないと言わんばかりに笑うのだ。小さな身体を思いっきり全身で笑うのだ。

ボクは思う。そうした動作が果たして今のボクに出来るだろうか。

Reiが教えてくれたことを時々思い出す。でもそれは決して言葉によるものではなく、ましてや強制ではない。自らの態度や顔の表情などによってである。
結構つまらないことで笑う、喜ぶ。だからこちらもそういったことを好んでもっともっとやっていく。

教室に行ったとき、最後に油絵の具をパレットからふき取り、筆を洗いそれを新聞紙に擦り付けていく。その新聞紙を丸めて専用のゴミ箱に入れるのであるが、ある時、その新聞紙の丸まったものをさらにもう1枚の新聞紙で包んで、その両端をそれぞれ絞ったようにした。大きなキャンディーの包みのようなものが出来た。それを見せるとReiがたいそう喜んで、うれしそうにしてくれた。そのとき以来、最後の片付けはいつも巨大な新聞紙のキャンディーの包みだった。
こんな馬鹿馬鹿しいことで何で喜ぶんだろうと思っていたけど、Reiは純粋にそうやって遊んだり、見せたり、たとえそれがお片付けや掃除の題材だとしてもしっかりと見て、否定しないでいてくれたんだよね。そうやって見守ってくれていたんだよね。

そうそう、Reiのところには、犬がいたっけ。小さいキャンキャン鳴く犬だった。でもボクが行くといつも尾っぽを振っていたっけ。
Reiが言った。
犬はその人がいい人かどうかをちゃんと見分ける。優しい人だからなつくんだよ。ちゃんとわかるんだよって。
それを20代前半の時期にある公演で同じようなことを言われたことがある。 「あなたの姿にはやさしさが出てる」と。

変なもので、今頃そんなことを思い出すものなんだ・・・。

 

2005.8.7 回想8 北海道での再会

もう8年くらい前だったろうか、Reiに再会した。
ちょうど北海道は函館から札幌、富良野あたりを旅行することになり、せっかくなので室蘭へと足を延ばした。

その旨電話をすると、そりゃ大喜びしてくれた。

当日、あいにくの雨。その1週間前に台風が通過し、その後も愚図ついた天気。なんとか車を走らせた。
しかし、途中で道路は分断され、うまく室蘭へ入ることができない。その日は時間的にも諦めざるを得ない。
最終日に寄る事にした。
それを電話すると、Reiはとても悲しそうだった。
というよりもこの状況を理解してもらうことになんだかとても時間がかかり、とても説明をしたように記憶している。
そうそう、今どこにいるのかということを何回も聞かれた。
あら?Reiってそんなに思い込みが激しい人だった?

あらためて思うと、案外そういうところはあった。そしてその思惑が外れるとたいそう残念がる。しかし、思惑が当たるとそりゃ大喜び。そういう面があったな。

かくして、日を改め室蘭に向かう。場所はすぐにわかった。駅前で電話すると本当にわかりやすく教えてくれた。
そこには15年ぶりの笑顔があった。そしてあまりにも短い時間が過ぎて、ボクは帰路につく。玄関先でボクの車が見えなくなるまで手を振っていてくれた。

このとき初めて知ったことがある。こうして何年もしてもなお、Reiを訪れる人はボクだけではなかったということ。
以前のボクのように育った人が時折、ボクのように突然訪れるのだという。
ああ、Reiは今もいろいろな人からまだ愛されている、そう思うとうれしかった。

2005.8.26 回想9 水彩画と油絵

 小学校4年生になった時から水彩画から油絵になった。ボクが希望したと言うよりもReiのところではみんなそうしているらしい。
 そうなると油絵のほうがえらいという感じを受け、なんだか自慢げになっていた。
 「水彩」は子供が書く絵、「油絵」は大人が書く絵、そんなふうに勝手に思っていこんでいる馬鹿なボク。

 そうなると、なんでも油絵でということになりがちである。しかし、学校での図工の時間で絵を描くときは水彩画。こうなるとなんとか水彩画でも油絵のような重厚感を出すように努力してしまう。厚塗りして重ね塗りして・・・。そのうち表面はガビガビになってきたりして・・・。

 いつの間にか水彩画を馬鹿にするようになってしまった。なんと哀れなボク。

 あるとき、Reiは教室で水彩画を書かせた。今回は油絵じゃなくてねと。
 多分、その時、ボクは不機嫌な顔をしたか油絵がいいとか言ったのかもしれない。でも気乗りしないままに書いた。

 完成して、Reiにいつものように見せた。絵に対しての評価は例によって何も言わない。

 でも、そこで言われたことははっきり覚えている。
 「水彩画」には「水彩画」の、「油絵」には「油絵」の、「スケッチ」には「スケッチ」の、それぞれの良さがある。「油絵」だけをやって「油絵」が好きというのは間違っている。「水彩」もやって「油絵」もやって、いろいろやってみたけど、やはり「油絵」が好きというのならいい。でもそのためにはそれぞれをとことんやってみないと比べられないのだと。

 もうひとつ、「好きならなぜ好きか」「嫌いなら何が嫌いか」をきちんと説明できなくてはいけない。なんとなく好き、なんとなく嫌いが一番いけないとも言われた。

 そのときは、別に深く思っていなかった。小学校2〜3年で水彩画、4年生から油絵、ちゃんと両方やって、油絵がすきなんだからいいじゃないかとか、ちょっと反抗的に思っていた。

 あのときのReiの一言は、当時のボクに対する警告だったのだ。

 この「いろいろなものを試してみてそれから決めること」「なぜ好きか、なぜ嫌いかを言えなければいけない」という2点は、その後大人になってから非常に影響を受けたことで、感謝である。

 きっと、あの時、Reiは見抜いていたんだろうなー。

 

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